院長のこれまで

history

私の強みはめちゃ強い信念持っていることです。
それは何なのか?なぜ私がそれを持つことができたか?

半生をさかのぼりながら感じていただければと思います。

第1章 0〜24歳
幸福な時代!誕生から大学まで

私、東 正也(ひがし まさや)は1959年(昭和34年)熊本県八代市に生まれました。
父は上に姉が3人いてそのため進学できず旧制中学卒でNTT(その当時は電電公社)電話中継所に勤めていました。自分が進学できなかった事が辛かったようで、その後、私達兄弟を安い給与の中で大学まで進学させてくれました。優しい人でした。
母は子供達が小学生になるとパートに出てくれました。
辛い職種の時もあったそうですが、明るく家庭を切り盛りしてくれました。
兄は一橋大学から共同通信社に入り、そろそろ定年です。以上4人家族でした。

子供の頃の私は、ひょうきんだけど内気な子供だったと思います。
通知表では3~4のどちらかというと愚鈍な子でした。小1の頃はクラスで1人泳げず母の自転車の後ろに乗ってスイミングスクールに通ったりしてました。
小5時に父の転勤に伴い、熊本県人吉市に引っ越しました。初の転校です。
この頃からボ~っとしていた頭が少しクリアになってきました。
水泳はすでに得意になっていたので水泳部に入りました。水泳でクラスのビリからトップですから、これは一つの成功体験になったのかもしれません。
小6からは兄の影響で柔道を始めました。何かと戦う!という姿勢を学べたのかもしれません。当時自転車店をされていた笹田さんに柔の道を教えて頂きました。
今でも人吉はホッとできる懐かしい街です。

再度父の転勤に伴い、鹿児島市吉野町に引っ越しました。
NTTの社宅は古い2DKのアパートでした。
吉野中では勉強もでき(11クラス550名中たいてい3番。卒業テストのみ1番!)
スポーツもでき(柔道部主将)たので、文武兼ね備えている生徒として、ミスター吉野中に選出されました。人生の第1黄金期です。当時大学は東大か京大か九大に行くと思ってました。

家は裕福ではありませんでした。ラ・サール高校は学費が公立の7倍(月21,000円)ということもあり、鶴丸高校へ入学しました。最初の試験では550人中49番。同級生の中には東大や医学部志願がゴロゴロいました。ここでは勉強した思い出しかありません。ただ、あれだけ勉強に頑張れた事はいい体験でした。あの頃に比べれば今の生活、普通の生活はパラダイスです。楽です。

その当時は、企業は金儲けが目的みたいな間違った観念をもってました。
会社員になるというのも想像できませんでした。(今は当然そうではありません。会社員の方スミマセン。今は立派な会社員になれる自信もあります)
家の経済状況からすると、浪人は望ましくないのは明白でしたので、現役で間違いなく合格できる学費の安い国公立の医学部か歯学部に行くことにしました。結局、7倍の競争率の中、福岡県立九州歯科大学に現役合格、入学しました。もちろん人の為に働く!という意欲も当時からかなりありました。

大学時代は親元を離れ、青春時代そのものでした。大学では水泳部に入り、歯学部の大会では表彰台の常連となりました。胸は逆三角形、腹部はシックスパックでした。
臨床の勉強をし、国試の勉強もし、無事合格、そして熊本の開業医に勤めることになりました。ただ、それからの2年間が暗黒の日々になろうとは、その時は全く気がつきませんでした。

第2章 24〜26歳
どん底!熊本勤務医時代

私は当時医療機関たる歯科医院は、どこも「患者さん想いで、いい歯科医療をやっている!」と、勘違いしていました。しかし初めて勤めた医院は全然違いました。
患者さんに対するハートもないし、スキル(技術)もそこにはありませんでした。
もっとこうしてあげたい!でも医院方針ではできないし、まして院長自体ができない!

大学時代ある程度の診療の勉強はしてましたし、歯科医師会のビデオは、ほぼ全て見ました。当時私の先生はビデオの中にいたのです。(笑)
やればできる!でも実際はやれない!してあげられない!のです。
不甲斐ない、辛い2年でした。その情けない状況に毎週泣けてました。

第3章 26〜33歳
恩人との出会い!沖縄時代

卒後3年目沖縄の山川歯科に勤務しました。
平田秀一院長に辛かった2年の思いを伝えると「わかりました。思うように何でもやって下さい。責任は私が取ります!」私は嬉しくて泣きました。人生の大恩人です。
その医院には歯科医が4人いましたが、翌月からバリバリ働き、仕事量売り上げ共にトップとなりずっと維持しました。患者さんのために力を尽くす事、良心的な治療ができるようになったのです。水を得た魚でした。
分院長の3年を含め7年間もお世話になりました。素晴らしい7年でした。最期に山川勝三理事長に「お世話になったご恩どうやってお返ししたらいいでしょう?」と尋ねると「恩というのは受けた人に返さなくていいんです。別の人に返してください」とおっしゃいました。この方も大恩人です。人としての道をも教えてもらいました。

歯科では患者さんをたくさん診る事を手が荒れるといって低くみる傾向がありますが、私は当時1日60~80人を毎日夜9時まで真面目に診てきました。その人を想い、その後の人生を考え、何をすべきかを一瞬で判断し治療する能力は、山川歯科で養われた能力だと思っています。

第4章 33〜52歳
開業!孤軍奮闘

1992年(平成4年)熊本県上益城郡嘉島町に開業しました。兄が東京から帰ってこないとは高校時代から思っていたので、熊本に帰り親の面倒を見ないといけないと思っていました。
山川歯科と同じく、夜間診療夜9時まで診療やりました。10~21時まで7台の診療台は空くこともなく忙しい毎日でした。
ただ一つ残念な事は、官業癒着の時代です。同業者業界から種々の妨害を受けた事です。
いろんなサービスを認めればもっといい国になるのに、もっと楽しい人生になるのに残念な事でした。
やはり、「患者さん想いの業界ではないな!」と確信しながら、頑張りました。ただ妨害の理由でもある夜間診療は、色んな不思議な事が重なり、又妨害も減り若い先生達が夜間診療に進出するのを確認しながら、役目を終える事にしました。2012年(平成24年)から夜7時までの診療にしました。(実は現在は夕方5時半までです。)
沖縄時代を含め夜間診療を27年頑張りました。熊本での開業前半は、診療後の仕事を終えるのが24時過ぎになる事が1年の半分ありました。悲しい事に離婚も1度経験しました。

第5章 52歳〜現在
ここ10年。苦悩の2年とその後

開業期間は今年2022年(令和4年)で30年になります。
ほとんど平和だったのですが、2年だけ暗い時代がありました。信頼していた主任に裏切られていたのです。それに気付かずどんどん医院の雰囲気は暗くなっていきました。
自分の中に解決策が見つからず、セミナーに通うようにしました。アチーブメント青木さんやスピードコーチングのクリスさん、テレサさんに特にお世話になりました。
そして、いろんな事をまとめなおす事ができ、人も入れ替え医院を立て直すこともできました。その後はず~と平和で幸福な職場、家庭となりました。

いろんな事に感謝できるようになりました。卒後の辛い2年がなければ「私は、私だけは患者さんの一番の味方になる!
という信念を得る事はできませんでした。反面教師でしたが、有難い経験でした。
その後の妨害に負けず、信念をさらに強くすることもできました。
今までの辛かった事、情けなかった事、怖かった事、くやしかった事、涙した事、そして有難かった事、嬉しかった事、がんばった事、喜んでもらえた事、その一つ一つが今の私を作っています。
長文読んでいただき、ありがとうございました。